きらきらと輝く真珠が零れ落ちる音 Kan Sano
キーボードから、白くキラキラと輝く真珠がこぼれていく。
Kan Sanoさんの音はそんな音がする。
品があって華がある。
すてきな夢をみているような、そんな音楽。
Kan Sano - Magic! (Live at daikanyama LOOP)
ポップな歌もステキだけど、ライブのキーボード演奏もステキなんだよね。
物語を音で語っている。
平安の絵巻物を読んでいるかのよう。
優しい佇まいと声の奥に、溢れ出る情熱を感じる。
聴いているうちに、ステキな風景を楽しめる。
そんなお得なライブだから、みんな来るといいよ。
山田ズーニー表現講座 3期 ザ ファイナル
いつからか文が書けなくなっていた。
月に1回小さな文を書かなければならないのだけれど、全然書けない。
仕方がないので、他の人の受け売りや、情報の羅列を連ねていた。全然自分の言葉ではなかった。
いろいろな情報を取り入れても、体の中をぐるぐるめぐるだけで、出口が見つからなかった。
どうしてだろう。言いたいことはたくさんあるはずなのに。
考えていることはたくさんあるのに。
伝えたい情熱はまだ心に残っているのに。
そんな時に山田ズーニーさんの表現講座に行くことが出来ました。
なんだかね、最初にその日のお題を聞いた時は、
「からからの雑巾をしぼらなくちゃいけないのか」
という感じ。全然書ける気がしない。というのか、”らしい事”をどうまとめるか、に頭がいっちゃう。
でもね、先生の話を聞いて、インタビュー形式の対話を通して、次々に自分のおもいが浮き上がっていく。
まとめる必要なんてない。
カラカラの雑巾に自分の想いがしみこんで、ずっしり重くなったのを、ただ絞るだけ。
表面的に自分で思っていることは、本当に思っていることではないのかもしれない。
謙遜したり、不安を何かに置き換えていたり、ままならない現状から逃げていたり・・・。
私たちは本当の自分の気持ちを知る努力をしているだろうか。
1人では難しかったこの作業を、山田ズーニー先生と、そしてこの講座で出会えた得がたい大切な仲間と、一緒に出来たことが本当にうれしかった。本当に楽しかった。
名前も知らない。年齢も知らない。住んでいる場所も、働いている会社の名前も、出た学校の名前も知らない。
私たちを飾っている表面的な所を一気に飛び越えて、その人の心に触れることが出来た。
置かれた立場も全然違う人の言葉を、ずごくわかりあえた。
これまでにない速度で社会は変化をし始めている。
人々の意見が多様化しそれが可視化される社会で、よりいっそう伝える努力、わかりあう努力をしていかなければ、誤解や憎しみやあきらめが増えていく。
でも
自分の気持ちに気づき、言葉にして伝える。
そんな事をする人がどんどん増えてくれば、人は理解しあえるのではないか。社会は変わっていくのではないか。
1人1人が始めれば、良い連鎖となって広まっていくのではないか。
本当に本当に、素晴らしい講座でした。
先生、ありがとう。
仲間のみんな、ありがとう。
また会おうね。
昔ながらの喫茶店
昔ながらの喫茶店は、あなたの過ごす町に残っていますか。
私の住む町の喫茶店は、5,6年前ぐらいにつぶれてしまって、チェーン店の寿司屋に変わってしまいました。
”カフェ”ならばいくらでもあるのですが、喫茶店はありません。
昨日働いた町で、仕事の話をするために、なるべく仕事関係の人がこない場所=おしゃれなカフェやチェーン店ではない場所をさがして入りました。
たぶん仕事でなければはいらないような、昔風の喫茶店です。店の前のメニューも普通のマーカーで普通の字で書かれた一枚の白い紙でした。
場所も良くなくこんなところにお客さんがいるのかな、と思ってはいったのですが、もう2時を過ぎていたのですが、満席とは言わないまでも、程よい広さのスペースのほとんどが埋まっていました。
店員さんは、中年のお姉さまと、そのお母様らしき白髪の少し腰がまがったおばあさま。
すこし暗めのお店かな、と思ったのですが、接客を受けると、おばあさまもお姉さまもびっくりするぐらい気持ちの良い対応でした。少し軽い会話と、でも踏み込みすぎない。会計が済むとドアの外まで見送ってくださいました。
お客様もまた感じがよく、さりげなく席を譲ってくださったり、お一人でいらしていても暇つぶしにスマホをみるわけでもなく、1人の時間をそれぞれたのしんでいらっしゃるようにみえました。
昔ながらの喫茶店、ちょっとはまってしまいそうです。
旅する本
落合先生の「これからの世界をつくる仲間たちへ」をアマゾンで買った。
このところの落合先生ブームで、この本の在庫がなく予約販売の表示になっていた。あと一週間ぐらいで入荷されるみたいだったから、そのまま予約のボタンを押した。
すると2日ぐらいでポストに本が入っていた。
あれ、と思いながらページをめくると、ページの間にレシートのようなものが入っている。
中古のボタンを押したかな、と思って注文履歴を調べると、アマゾンの普通の販売扱いになっている。
何かの手違いかな、と思ってもう一度その紙片を見ると、レシートではなくて書店の書棚検索の用紙だった。
2016年6月24日 19時20分。
今から一年と5ヶ月前。
紀伊国屋書店福井店の表示がある。
たぶんこの本を買おうかな、と思った人が、本屋に行って、検索して、紀伊国屋福井店のB03-03の棚に行って、この本を手にとって、立ち読みして、用紙を挟んで、もう一度本棚に戻したんだろう。
その人はどんな人だったのだろう。
2016年の6月24日は金曜日だったから、1週間の勤務が終わって週末読む本を探していたのだろうか。
それともデートの待ち合わせまでの時間を、気になる本の検索でつぶしていたのだろうか。
そしてこの本はそれから1年以上、その棚で眠っていたのだろうか。
それともこの用紙を挟んだまま、他の書店に運ばれたのだろうか。
とにかく1年と5ヶ月後にアマゾンにたどり着き、そこから私の家に来た。
長い旅をしてきたんだなぁ。お疲れ様。
街中のライブ
ライブっていうと夜がほとんど。ライブハウスだとお酒も出る。
ホールならまだしも、ライブハウスにこどもは連れて行きにくいよね。音も大きいから耳にも悪そうだしね。
そうするとね、こどもが生で音を聴ける機会ってあんまりないんだよね。ジルデコとかこどもOKの昼間ライブもやってたりするけどね。
でもこの秋、街中のフェス的なのにいったら、子どもたちが通りかかって、結構真剣に聴いてた。
たまフェスのDATSでは、パーカッション叩かせてもらってたし、川崎のJAZZフェスのsui sui duckでは、本当に食い入るように子どもが聴いてた。
その子達は、そんな日があったことも忘れてしまうかもしれない。
でもね、あんなに真剣に聴いてたってことは、心が動いた、ってことだ。youtubeとか音源じゃなくて、生の音の持つ空気のゆらぎを感じたってことだ。
そんな経験の種まきをたくさんすれば、年頃になって音楽をたくさん聴くようになるかもしれないよ。ライブにも来るようになるかもしれないね。ひょっとしたら自分で演奏するかもしれない。そんな将来を思うとワクワクするね。
街中のライブって、本当にいいなぁ。
異端の強さ 東京ゲゲゲイ
日本には”道”がある。
型があって、それを守り、それでもなお滲み出る個性。それが本当の個性である、という考え方。学校の制服や規則や、茶道などのお稽古事もその一つ。日本にはこの考え方が根強くあるよね。
それはそれで一つのありようではある。型にはまったほうが安心できる人もいるだろう。型を守りそしてそれを打ち破り新しいものを作っていく、という人もいるだろう。
でもね、型に収まらない人間もいんだよ。収まりたくない、というか収まることが出来ない。
異端。
けっこうしんどい。
ダンスはぜんぜん詳しくないし、東京ゲゲゲイの何を知ってるかと言われると何にも知らない。
だけど、そのダンスをみていると、何だ励まされている気がしてくる。
異端の者の強さと、そのせつなさ。
理解されないこともあるかもしれないけど、異端者であってもいいんだな、むしろそれを生かしていってもいいのかな。そんな気持ちがわいてくる。
天才二十面相 清竜人
最初に聴いたのは、限りなく優しい声だった。
タワレコの視聴だったか、出だしを聞いた瞬間もうCDを買うことを決めた。
そのCDの中の曲たちは、傷つきやすく繊細で愛にあふれているように聞こえた。
聴きにいったライブでも、そんな繊細な音楽に共感した、繊細な人たちがたくさんいた。
でもね、そんな印象は天才の1面にしか過ぎない。
凡人が思いもつかないような事を思いつくのが天才だからね。
思いもよらないような変化をみせるのが、清竜人。
私の一番好きなアルバム「WORK」のツアーの時は、佐藤タイジさんと一緒に、あふれ出すメロディーにポンポンとのせていく言葉。熱い熱いライブだった。
そのころのライブには、ちょっと男の子も増えてはいたものの、繊細な女の子ファンが主だったと思う。
そして次に会ったときはアイドルになっていた。
アイドルかい?そして君がセンターかい?
と、みんなが突っ込んだアイドルグループ。
高速で変化していく清竜人。
ファン層ももうカオス状態。
解散後は、無料ライブで客と一緒に歌い、客も演奏し、全員参加型ライブという新しい形を作り出した。
なんていったって天才だからね。
もう次の一歩は凡人には想像もつかないよ。
でもきっと何かを歌い続けてくれるんだろう。
変化できないものはふるい落とし、走り続ける清竜人。
そのまま走っていって欲しい。
美しいメロディーと愛ある歌詞は変わらないだろうからね。